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オーストリア 地図


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オーストリア 写真

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オーストリア旅行記 1

2010年3月欧州旅行 ウィーンにて

リポーター:まめた きな子
旅行スタート日:2010/03/04
旅行終了日:2010/03/05

austria 諸般の事情で欧州諸国をめぐることになったわたし・きな子。 台北経由の中華航空で遠路はるばるウィーンに到着しました。

austria 思わずパチリ。「ミンスク」って実在の地名だったのね!(参照、米ドラマFRIENDS)


austria 到着ホール横にあるカフェでコーヒーを飲む。朝5時半の到着なのでまだ外も暗い。


austria ここが今回泊まったホテルアストリア。オペラ座至近で部屋も素敵。無線LANも無料、朝食もおいしい。ウィーンに行くならまたここに泊まりたい。


austria さて街歩きに出発。


austria 花の都ウィーン。


austria 歴史の中に迷い込んだ気分になる。


austria 歴史の重み。


austria テレーザ像。


austria 絵葉書のような景色。


austria どれだけの人が携わったんだろう…


austria とりあえずコーヒー飲みましょ。


austria 本場のウインナーコーヒー。


austria マリアテレジアもひいきにしたという老舗のリネン屋さん。なにか記念に買いたかったのに、どれをたずねても「メイドインスイス」と答えられ失意の余り何も買わず…。


austria 広場に出ました。


austria 聖堂の中。珍丸と一緒に旅の安全と健康をお祈り。


austria 今回の旅は珍丸3か月の長丁場。 なので食べられる時はできるだけお米を食べる主義なんです。 ここは韓国料理屋さん。夜いこう~。


austria AKAKIKO(アカキコ)という韓国系日本風レストランでプルコギ弁当を。たしか9ユーロくらい。ボリュームがすごくてお肉とごはんをかなり残しました。お味もまあまあでしたよ。


austria めちゃくちゃ眠いけど辛抱して音楽会へ。39ユーロの一番安い席。クアサロンという小さな劇場へ。


austria バレエあり、オペラありの観光客向け音楽会。でもなかなかおもしろかったです。特段音楽ファンではなく一般の観光客で、「せっかくウィーンだから音楽でも」という私のような一般人にとっては行く価値あり。


austria 夕飯は予告通り韓国料理でキムチチゲ。氷点下の街歩きで冷え切った体が温まりました。 9ユーロくらい。味はまあまあ。


austria 翌朝。3月5日。 ウィーンからデンマークのコペンハーゲンへの移動日。 ホテルザッハーでザッハートルテを食べに行く。 珍丸はお仕事だから私一人です。


austria 豪奢な?ホテルザッハーのカフェ内部。 ちなみに席に着く前にクロークにコートを預けます(1ユーロ)。


austria ザッハトルテとウインナーコーヒーです! 甘い!! 二度と食べないと思う…


austria 荷物をまとめて空港へGO~~




オーストリア旅行記 2

チャイナエアライン ビジネスクラスで 台北経由 ウィーン

リポーター:まめた きな子
旅行スタート日:2010/03/02
旅行終了日:2010/03/04

オーストリア
austria 相棒・珍丸のオシゴトと私のオシゴト関係がいきなり欧州で激突、 珍丸は3か月、私は3週間を2回、欧州に行くことになりました。 が、エコノミーじゃ疲れる… かといってお金はない… しかも直前予約すぎてマイレージでビジネスも無理… と絶望の淵に立たされた私・きな子であったが、 ひょんなことから中華航空のCクラスを激安でゲット、 台北経由でウィーンを目指すことになったのであった。 めちゃ遠回りだけど、どうなるかしら!?

austria 成田空港第一ターミナルにある中華航空(チャイナエアライン)のラウンジです。カットフルーツ、いなり寿司、パン、おにぎりなどがありましたが私はコーヒーのみ。この先、ただ座って食事するだけの時間を過ごすのでおなかの準備をしたつもり。


austria ラウンジを別のアングルから。実は新しいカメラを買ったばかりなので練習も兼ねて。


austria 私が乗る機材が見えました。アッパーデッキがあるってことは、古いシートのタイプですね。でも台北までなので全然平気。


austria ゆったりはしているけど、長距離じゃ物足りないシート。これでまずは台北までの3時間半です。


austria 機内食のメニュー。和食できまり!


austria まずは前菜。リースリングとともに。


austria とても豪華だけど私の口には… でも少しいただきました。


austria デザートは和菓子。要職を選んだ型のチーズケーキのほうがおいしそうだったの。。。


austria その後体調を崩し、ラウンジで熟睡。気がつくとウィーン行きの搭乗時刻でした! 台北のラウンジではシャワーが使えました。


austria ウィーンに向かう機材はチャイナエアラインのCクラスではたぶん一番座席がゆったりしている機材でした。フルフラットじゃないけどゆっくり寝れるシートでした。で、23時10時発なのにサパー? しっかりめの機内食。


austria デザートも。ちょっとだけ食べたけどもう眠気が限界で…。


austria 朝ごはんにお粥が出たけどそれも写真に撮れなかったほど眠くて、気がついたウィーン! お隣に座っていた奥さまに「うらやましいほどぐっすりだったね」と笑われた私なのでした~。


オーストリア 写真2

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オーストリア 情報

オーストリア

略名 オーストリア
日本語国名 オーストリア共和国
漢字表記 墺太利共和国
国旗画像 Flag of Austria.svg
国旗リンク オーストリアの国旗 国旗
国章リンク (オーストリアの国章 国章)
国歌 山岳の国、大河の国
位置画像 Location Austria EU Europe.png
公用語 ドイツ語
首都 ウィーン
最大都市 ウィーン
元首等肩書 連邦大統領 (オーストリア) 連邦大統領
元首等氏名 ハインツ・フィッシャー
首相等肩書 連邦首相 (オーストリア) 連邦首相
首相等氏名 ヴェルナー・ファイマン(オーストリア社会民主党 社会民主党)
面積順位 112
面積大きさ 1 E10
面積値 83,870

オーストリア共和国

『オーストリア』より : オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく)、通称オーストリア(”ドイツ語::de:Österreich Österreich”)。ヨーロッパの連邦制 連邦共和制国家。首都はウィーン。西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接。かつて欧州自由貿易連合 EFTAの所属。永世中立国であるが、欧州連合 EU加盟によって形骸化している。かつては中央ヨーロッパ 中欧に650年間君臨したハプスブルク家の帝国であり、第一次大戦まではイギリス 英ドイツ 独フランス 仏ロシア 露とならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。現在は、多民族国家であった旧帝国のうち支配民族であったドイツ人地域に版図を絞っている。音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。

オーストリア・ハンガリー帝国

ブダペスト(ハンガリー王国)
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
1848年  オーストリア・サルディニア戦争。ウィーン十月反動革命起こる。12月、フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝) フランツ・ヨーゼフ1世即位。
1849年  3月、オーストリア憲法成る。
1851年  12月、憲法を一時廃し、皇帝専制を布く。
1854年  プロイセン王国と対ロシア帝国同盟。

オーストリア=ハンガリー帝国

『オーストリア・ハンガリー帝国』より : ブダペスト(ハンガリー王国)
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
1848年  オーストリア・サルディニア戦争。ウィーン十月反動革命起こる。12月、フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝) フランツ・ヨーゼフ1世即位。
1849年  3月、オーストリア憲法成る。
1851年  12月、憲法を一時廃し、皇帝専制を布く。
1854年  プロイセン王国と対ロシア帝国同盟。

オーストリア・ハンガリー二重帝国

『オーストリア・ハンガリー帝国』より : ブダペスト(ハンガリー王国)
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
1848年  オーストリア・サルディニア戦争。ウィーン十月反動革命起こる。12月、フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝) フランツ・ヨーゼフ1世即位。
1849年  3月、オーストリア憲法成る。
1851年  12月、憲法を一時廃し、皇帝専制を布く。
1854年  プロイセン王国と対ロシア帝国同盟。

オーストリア=ハンガリー二重帝国

『オーストリア・ハンガリー帝国』より : ブダペスト(ハンガリー王国)
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
1848年  オーストリア・サルディニア戦争。ウィーン十月反動革命起こる。12月、フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝) フランツ・ヨーゼフ1世即位。
1849年  3月、オーストリア憲法成る。
1851年  12月、憲法を一時廃し、皇帝専制を布く。
1854年  プロイセン王国と対ロシア帝国同盟。

オーストリア・ハンガリー

『オーストリア・ハンガリー帝国』より : ブダペスト(ハンガリー王国)
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
1848年  オーストリア・サルディニア戦争。ウィーン十月反動革命起こる。12月、フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝) フランツ・ヨーゼフ1世即位。
1849年  3月、オーストリア憲法成る。
1851年  12月、憲法を一時廃し、皇帝専制を布く。
1854年  プロイセン王国と対ロシア帝国同盟。

オーストリア=ハンガリー

『オーストリア・ハンガリー帝国』より : ブダペスト(ハンガリー王国)
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
1848年  オーストリア・サルディニア戦争。ウィーン十月反動革命起こる。12月、フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝) フランツ・ヨーゼフ1世即位。
1849年  3月、オーストリア憲法成る。
1851年  12月、憲法を一時廃し、皇帝専制を布く。
1854年  プロイセン王国と対ロシア帝国同盟。

オーストリア人の一覧

オーストリア人の一覧(オーストリアじんのいちらん)は、オーストリア帝国(ハプスブルク帝国)・オーストリア オーストリア共和国で出身あるいは活動した有名人の一覧。
オーストリア・ハンガリー帝国期には、ウィーンをはじめとする現在のオーストリア領へと、帝国各地の様々な民族に属する住民が集まり、オーストリア国民として生活・活躍していたため、ここではそのような人物も一覧に含める。
パウル・ギュルダン
クルト・ゲーデル - ブルノ出身の数学・論理学者。完全性定理と不完全性定理、連続体仮説の相対的な無矛盾性など
ヨーゼフ・シュテファン - 物理学者、数学者、詩人。スロベニア人

オーストリア人一覧

『オーストリア人の一覧』より : オーストリア人の一覧(オーストリアじんのいちらん)は、オーストリア帝国(ハプスブルク帝国)・オーストリア オーストリア共和国で出身あるいは活動した有名人の一覧。
オーストリア・ハンガリー帝国期には、ウィーンをはじめとする現在のオーストリア領へと、帝国各地の様々な民族に属する住民が集まり、オーストリア国民として生活・活躍していたため、ここではそのような人物も一覧に含める。
パウル・ギュルダン
クルト・ゲーデル - ブルノ出身の数学・論理学者。完全性定理と不完全性定理、連続体仮説の相対的な無矛盾性など
ヨーゼフ・シュテファン - 物理学者、数学者、詩人。スロベニア人

オーストリアの歴史

オーストリアの歴史について詳述する。政治・文化・人物誌などを含んだ総合的な年表を付記する。
”詳細は神聖ローマ帝国を参照”
1249年にバーベンベルク家が断絶するとオーストリアはドイツ諸侯の争奪の場となったが、ハプスブルク家のルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝) ルドルフ1世が領有し、以後ハプスブルク家の支配が続く。ハプスブルク家が本拠にしてからのウィーンは政治、経済、学芸の中心として繁栄していくことになる。
1438年以降は神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が世襲するようになり、15世紀にはマクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝) マクシミリアン1世は結婚政策でブルゴーニュ、フランドル、スペインにも家領を持つようになる。

オーストリア語

『ドイツ語』より : states=ドイツ、スイス、オーストリアとその他 38カ国
region=ヨーロッパ
speakers=1億2800万人
rank=8位
family=インド・ヨーロッパ語族
ゲルマン語派
西ゲルマン語群
高地ゲルマン諸語
ドイツ語
nation=欧州連合、ドイツ、リヒテンシュタイン、オーストリア、ルクセンブルク、スイス。地方自治体:ベルギー、デンマーク、イタリア、ポーランド
agency なし
iso1=de
iso2=ger (B)/deu (T)
iso3=deu
sil=GER}}

オーストリア併合

『アンシュルス』より : アンシュルス(独:”Anschluß”,独墺合邦)は、単語としては『接続・合併』を意味する。ここではDer Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich の意味で使われる。日本では1938年3月13日のナチス・ドイツによるオーストリア合邦と訳される。
神聖ローマ帝国が、その内実を失った三十年戦争以後、ドイツ民族の統一した「ドイツ国家」の復活は多くのドイツ人の悲願であった。しかし、大きな内部的な課題が存在していた。
ドイツ語圏には旧神聖ローマ帝国王室であるハプスブルク家が治めるオーストリアとホーエンツォレルン家が治める新興国プロイセン王国 プロイセンという2つの大国があり、どちらもが自国によるドイツ統一を望んでいた。更にオーストリアの領土にはハンガリー人やスラブ民族などが多く居住しており、異民族が存在したのでは本当の意味での国民国家が成り立たないとの意見もあった。

オーストリア合邦

『アンシュルス』より : アンシュルス(独:”Anschluß”,独墺合邦)は、単語としては『接続・合併』を意味する。ここではDer Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich の意味で使われる。日本では1938年3月13日のナチス・ドイツによるオーストリア合邦と訳される。
神聖ローマ帝国が、その内実を失った三十年戦争以後、ドイツ民族の統一した「ドイツ国家」の復活は多くのドイツ人の悲願であった。しかし、大きな内部的な課題が存在していた。
ドイツ語圏には旧神聖ローマ帝国王室であるハプスブルク家が治めるオーストリアとホーエンツォレルン家が治める新興国プロイセン王国 プロイセンという2つの大国があり、どちらもが自国によるドイツ統一を望んでいた。更にオーストリアの領土にはハンガリー人やスラブ民族などが多く居住しており、異民族が存在したのでは本当の意味での国民国家が成り立たないとの意見もあった。

オーストリア継承戦争

オーストリア継承戦争 (オーストリアけいしょうせんそう、英:War of the Austrian Succession, 独:Österreichischer Erbfolgekrieg, 1740年-1748年)は、神聖ローマ帝国の継承問題を発端に、ヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争。カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した。
神聖ローマ皇帝カール6世 (神聖ローマ皇帝) カール6世は男系後継者を亡くし、娘のマリア・テレジアにハプスブルク家領(ハプスブルク君主国 オーストリア)を継がせるため、女子の相続を認める国事詔書を出し、いくらかの譲歩を行ってフランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせた。またハプスブルク家は伝統的に神聖ローマ皇帝を世襲してきたが、女性は帝位に就けないので、マリア・テレジアの夫フランツ1世 (神聖ローマ皇帝) ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファンの即位を求めた。しかしルイ15世 (フランス王) ルイ15世のフランス宮廷は、ハプスブルク勢力を弱体化させる絶好の機会として背後で画策した。このためオーストリアと周辺諸国の間で戦争となった。

オーストリア・バイエルン戦争

『オーストリア継承戦争』より : オーストリア継承戦争 (オーストリアけいしょうせんそう、英:War of the Austrian Succession, 独:Österreichischer Erbfolgekrieg, 1740年-1748年)は、神聖ローマ帝国の継承問題を発端に、ヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争。カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した。
神聖ローマ皇帝カール6世 (神聖ローマ皇帝) カール6世は男系後継者を亡くし、娘のマリア・テレジアにハプスブルク家領(ハプスブルク君主国 オーストリア)を継がせるため、女子の相続を認める国事詔書を出し、いくらかの譲歩を行ってフランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせた。またハプスブルク家は伝統的に神聖ローマ皇帝を世襲してきたが、女性は帝位に就けないので、マリア・テレジアの夫フランツ1世 (神聖ローマ皇帝) ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファンの即位を求めた。しかしルイ15世 (フランス王) ルイ15世のフランス宮廷は、ハプスブルク勢力を弱体化させる絶好の機会として背後で画策した。このためオーストリアと周辺諸国の間で戦争となった。

オーストリア帝国

オーストリア帝国(独:Kaisertum Österreich)は1806年の神聖ローマ帝国解体から1867年のオーストリア・ハンガリー帝国の成立までオーストリアのハプスブルク家が支配した多民族国家。
前身の、神聖ローマ帝国内外の王国・領邦の連合国家だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
18世紀のオーストリア継承戦争や七年戦争によって神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであったが、フランス革命を受けたナポレオン・ボナパルト ナポレオン帝政の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がる支配領域(ハプスブルク君主国)をもって帝国を形成した。

オーストリア戦役 (1809年)

『第五次対仏大同盟』より : 第五次対仏大同盟(だいごじたいふつだいどうめい, Fifth Coalition, 1809年4月9日 - 1809年10月14日)は、ナポレオン・ボナパルト ナポレオン1世のフランス第一帝政 フランス帝国による覇権に挑戦するため、オーストリア帝国とイギリス帝国 イギリスが結成した同盟である。
1808年、ナポレオンの覇権は欧州の全域に及びつつあった。しかし、海上ではイギリスが依然として制海権を握り海上封鎖を続けていた。そしてまたスペインではフランスの統治が現地住民の反感を呼びゲリラが各地で決起していた。イギリスはウェリントン公アーサー・ウェルズリー アーサー・ウェルズリーを派遣してスペインの反乱勢力を支援させた。いわゆる半島戦争が開始されたのである。こうした陸海でのナポレオンのつまづきを見たオーストリア帝国は、1809年4月9日イギリスと第五次対仏大同盟を結成し、1805年のプレスブルクの和約で失った領土の奪還へと乗り出した。

オーストリア君主一覧

オーストリア君主一覧(オーストリアくんしゅいちらん)は、オーストリアの君主の一覧。
レオポルト1世 (オーストリア辺境伯) レオポルト1世 (976年 - 994年)
ハインリヒ1世 (オーストリア辺境伯) ハインリヒ1世 (994年 - 1018年)
アーダルベルト (オーストリア辺境伯) アーダルベルト (1018年 - 1055年)
エルンスト (オーストリア辺境伯) エルンスト (1055年 - 1075年)
レオポルト2世 (オーストリア辺境伯) レオポルト2世 (1075年 - 1095年)
聖レオポルト3世 (オーストリア辺境伯) 聖レオポルト3世 (1095年 - 1136年)
レオポルト4世 (オーストリア辺境伯) レオポルト4世 (1136年 - 1141年)
ハインリヒ2世 (オーストリア公) ハインリヒ2世 (1141年 - 1156年) ⇒オーストリア公ハインリヒ2世

オーストリア戦役 (1805年)

『第三次対仏大同盟』より : 第三次対仏大同盟(だいさんじたいふつだいどうめい, Third Coalition, 1805年4月11日 - 1806年)は、ナポレオン・ボナパルト ナポレオン1世が支配するフランス第一帝政 フランス帝国の覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国が結成した同盟。革命後のフランスに対抗するものとしては3度目だが、ナポレオンのフランス帝国に対抗するものとしては最初の同盟である。
1803年5月、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告した。これをもってフランス革命戦争とナポレオン戦争との区切りとされる。以降、イギリスは海上封鎖を展開し、フランス経済に打撃を与えた。1805年、ナポレオンはイギリスを屈服させるため、イギリス本土への侵攻作戦を計画、ドーバー海峡に面したブローニュ=シュル=メール ブローニュに18万の兵力を集結させた。これに対抗するため、1805年4月11日、イギリスは各国と同盟を結成した。ただしプロイセン王国 プロイセンは中立的な立場を取った。